庭園:心に響く言葉
先日、京都にある臨済宗南禅寺派圓光寺を訪れました。
山門を入ると枯山水「奔龍庭」が眼前に広がり、さらに中門を抜けると「牛十図」を題材にした「牛十之庭」、紅葉の時期だったので苔と紅葉、敷紅葉と本当に美しい庭を拝見することができました。
「牛十図」とは牛を追う牧童の様子が描かれており、牧童が禅の悟りに至るまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語だそうです。なかなか奥が深いですね。
また、この寺の座禅会の案内には、“静寂の中「無」になっては如何でしょうか”と書かれていました。
「牛十図」に「坐禅」、聞いたことはあるが本当はどういうことなのか?「無」とは?そもそも「禅」とは何か?本当の意味を知らないなあと感じた時に調べてみた“初めてその意味を知った言葉”です。
・「禅」とはなにか
雑念を排し自己と向き合うといった漠然としたイメージしか持っていなかったので、詳しく“禅とは何か”を調べてみると、
禅宗は仏教の一派、「お釈迦さまの心を伝えよう」というところからはじまったものだそうで、ダルマ(達磨)さんが始祖と言われている。禅の意訳は“静慮”心を静かにして考えること、落ち着いた心。
日本に伝わってからは日本独特のものに姿をかえて、単に宗教の一派であるにとどまらず、日本文化全体に大きな影響を与えた。「道」と名のつくものには、禅の影響を強く受けているものがある。茶道、書道、剣道、弓道などがそれで、これらに共通しているのは、謙虚に自分を抑えてひとつのことに専念し、一事を極めて、高い境地に達する。
といったなかなか理解することが難しい深い深い意味があるようです。
これといった趣味もなく都度興味を持ったものを行ってみたものの夢中になれず、一事を極めることもなかったなあと思いその意味を調べてみた“初めてその意味を知った言葉”です。
ここから得た教訓は、これまでの狭い経験から先入観にとらわれ何かをわかったような気になっていないで、ひとつひとつに謙虚に向き合おう。頭で何かを考えたりせず専念する、これをやっていれば「無」になれるといった積極性を持つということです。これからはシンプルに無心に日常を過ごそう、“謙虚に専念”
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